目覚ましの音で異変に気がついた。
これは、私の目覚ましの音じゃない、そう思ってまだ起きていない頭を持ち上げて時計を手に取る。まだ6時、外はほんのりと明るくなっていた。
ゴソゴソッ、と横で何かが動く気配を感じる。振り向くと父が寝ていた。
「ちょっと!何でこんな所で寝てるのよ!」
「・・・おい、何言ってんだよ・・・。早く朝飯の支度しろよ・・・。」
何が何だかわからず、起き上がってみると、そこは両親の寝室だった。クローゼットの側面の鏡に薄暗く映ったのは、紛れもない、母の姿だった。混乱する意識の中、そのまま部屋を出て、私の部屋に向かった。
人の気配はなかった。きちんと片付けられている部屋。暫くの間、誰もここで生活していないことを語っている。それでも私の部屋。
『一体、どういうことなんだろう・・・。私は・・・そうだ、私は今月の頭からアメリカに留学したんだった・・・。』
記憶がじんわりと蘇ってくる。デザインの勉強をしたくて、大学を休学し、無理を言って留学してしまったのだ。父はとても反対した。そんな父を母が説得してくれた。母はとても嬉しそうにこう言ってくれた。
『あなたの人生なんだから、あなたのやりたいようにやってみなさい。後悔しないようにね。』
そういって母が笑ったのを覚えている。その母が今、目の前にいる。私が母そのものになっている。部屋のドレッサーの鏡に座ってみる。鏡が映し出しているのは、やはり母の顔だった。
じっと見つめる。化粧っ気のないその顔は、どこかやつれていた。
いつも明るい母の、こんなにまじめな顔を見るのは、初めてな気がする。目じりと口元には深い皺。笑い皺。目の下にはクマができている。触れた唇は、少しカサカサしている。
夢じゃなかった。私の体は、母そのものになってしまっていた。
どうしていいかわからず、その場でじっと鏡を見つめていると、背後から声がした。
「おい、どうしたんだよ。ミクなら留学しただろう。早く支度をしてくれ。」
そいうって立ち去る父を呼び止めようとしたが、言葉が出なかった。仕方なくそのまま母のクローゼットから服を取り出し、着替えてキッチンに向かった。
父は着替え終わって、新聞を片手にいつもの席に座っていた。不思議な光景。私は私の席に座ることもなく、そのまま朝食の準備をするなんて。そんなことしたこともなかった。何度か父に話しかけようとしたが、何を話していいか、何から話していいかわからず、やめてしまった。
簡単な朝食を作り、父と二人で食べる。そして思わず父の顔を覗き込む。それに父が気づいた。
「何だよ、今日は朝から何だかおかしいぞ?調子でも悪いのか?」
『ううん。何でもない・・・。』
そう言うとちょっと心配そうな顔をして、今日は付き合いがあるから遅くなる、と言って出かけてしまった。
父が出かけた後、リビングのソファに、腰をかける。深いため息が洩れる。これからどうしよう。漠然と思った。そうだ、アメリカに電話してみよう。そして受話器を手に取る。
何回かのコールの後に、受話器を置いた。もう『私』は学校に出かけたのかもしれない。そもそも『私』はどうなっているんだろう。私が二人いるのだろうか。私は誰?そうしているうちに、強い眠気に誘われ、そのまま横になった。
意識がやんわりと蘇る。外はもう暗くなっている。いけない、どれくらい眠ってしまったんだろう。体が異常に重く、首に手をやると、とても熱い。
玄関先で物音がする。父が帰って来た。ソファに腰をかけている私を見て、父が心配そうな顔をする。
「大丈夫か?だからいつも言っているだろう。あまり無理するな。」
『・・・ううん、何でもない、大丈夫。』
そう言うと父は、ほっとしたような顔をして、着替えるために部屋へと消える。暫くして戻ってくるなり、冷蔵庫からワインを取り出した。
「ちょっと、一杯飲もうか?」
グラスにワインが注がれる。こんなことを父と母はしていたのだろうか。一緒に晩酌をする姿なんて、一度も見たことなかった。
母に優しい言葉をかけている父も、見たことがなかった。どちらかというと、亭主関白だと思っていた。仏頂面で、言葉も少ない父から、日ごろ、読み取れるものは少なかった。私は読み取る必要もなかった。
言葉ないまま、用意されたグラスを見つめる。トクトクトク、と静かな音を立ててワインが注がれる。
ぼそり、と、父が呟いた。
「あいつ、俺から逃げるようにして行ってしまったからな。」
そして小さく笑った。
『え?』と言って顔を上げると、父が悲しそうな顔をして、背中を丸めていた。
「留学には頭ごなしに反対してしまった。でも、本当は、ただ、淋しかっただけなんだ。」
父は、私のことを母だと思って語りかけている。そこに、父の本音が漏れる。
「淋しいというよりは、心配なんだろうな。ただ。何となく、近くにいたものが離れていくというのは、そういう気持ちになるもんだ。」
ハハハッ、と空笑いして、父はワインをグィっと飲み干した。
「お前も本当は俺のことを恨んでいるんだろうな。」
父はちょっと酔っ払っているみたいだった。泣きそうな顔をしながら、笑っていた。
「何も言わなくても解るさ。あの時と、ミクが留学したい、と言ったときが、重なっただろう?」
そう言いながら、二杯目のワインをグラスに注ぐ。
「俺はお前の夢を、断ち切った張本人だからな。お前が後悔していることくらいわかるさ。だけどやっぱり親子だな。ミクはお前の血を引いているんだなぁ。」
何のことだかわからなかった。私がお母さんと同じ?何が?
「今日は疲れたからこのまま寝る。お前も早く寝なさい。」
そう言って父は、二杯目のワインをグイッと飲み干し、キッチンから姿を消した。
私は驚いていた。そして動揺していた。
なんとも言えない気持ちになっていた。父の愛情、そういうものを感じることは、日ごろ難しい。親子だからこそ、わからない。本当は親子だからこそ、解り合わなくてはならないのに。
それと父が母に言っていたこと。夢を断ち切った、という話。私が産まれる前の話のようだ。何のことだろう。母には夢があったんだ。母の夢なんて、考えたこともなかった。
独り残された部屋の静寂を、一本の電話がかき消す。
ピロピロピロ・ピロピロピロ・・・。
ああ、びっくりした、電話か、と、胸の辺りを押さえながら受話器を取る。
「・・・はい。」
暫しの沈黙。
「もしもし?」
『寝てた?』
その声は、紛れもなく"私"の声だった。
「・・・あ。」
『ふふ。ごめんね。驚いたよね。私よ、母さん。』
「どうして・・・。」
『そうよね。私もびっくりしたの。まさかこんなことになるとはね。』
「・・・・・・。」
『ごめんね。本当は心残りだったの。あの日、夢を諦めてしまったこと。でもね、もう大丈夫。ありがとう。』
「・・・え?どういうこと?」
『もう切るわね。おやすみ。もう少しだけお父さんをよろしくね。』
「・・・!お母さん!ちょっと・・・」
私の言葉を待たずに、電話は切れた。
どういうことなのだろう。まさかこんなことになるとは?心残りだった?大丈夫?どういうこと?
軽い眩暈がして、ソファに倒れこんだ。途切れ途切れの意識の中で、思い出す。
小さい頃、母が私に見せた『デッサン』の数々、学校に行っていた時の作品の数々。私と一緒にお絵かきを楽しそうにしている母。
物音に気づいたのか、隣の部屋から顔を覗かせた父が、驚きながら私に駆け寄る。何か言っているが、頭に聞こえてこない。
そうか、そうだったのか。そう思った。そして私は父に告げた。まるで母の代弁をするかのように。
『お父さん、私は後悔なんかしてないから。これでいいから・・・。いつもちゃんと思ってくれてありがとう・・・。』
私の名前、未来。母は私に託したものがあった。それは彼女が迎えるはずの未来。
そして母は叶えられなかった夢を、一瞬だけれど叶えた。思いの強さが、時に奇跡を起こすのだろう。
私は家族の大切さを知った。私は自分ひとりで生きているわけではない。母と父の思いを愛情と共に受け、そして生きている。
想いが時を越える。
その事実が、当たり前のことは、当たり前なのではないと、私に思わせてくれたのだった。
これは、私の目覚ましの音じゃない、そう思ってまだ起きていない頭を持ち上げて時計を手に取る。まだ6時、外はほんのりと明るくなっていた。
ゴソゴソッ、と横で何かが動く気配を感じる。振り向くと父が寝ていた。
「ちょっと!何でこんな所で寝てるのよ!」
「・・・おい、何言ってんだよ・・・。早く朝飯の支度しろよ・・・。」
何が何だかわからず、起き上がってみると、そこは両親の寝室だった。クローゼットの側面の鏡に薄暗く映ったのは、紛れもない、母の姿だった。混乱する意識の中、そのまま部屋を出て、私の部屋に向かった。
人の気配はなかった。きちんと片付けられている部屋。暫くの間、誰もここで生活していないことを語っている。それでも私の部屋。
『一体、どういうことなんだろう・・・。私は・・・そうだ、私は今月の頭からアメリカに留学したんだった・・・。』
記憶がじんわりと蘇ってくる。デザインの勉強をしたくて、大学を休学し、無理を言って留学してしまったのだ。父はとても反対した。そんな父を母が説得してくれた。母はとても嬉しそうにこう言ってくれた。
『あなたの人生なんだから、あなたのやりたいようにやってみなさい。後悔しないようにね。』
そういって母が笑ったのを覚えている。その母が今、目の前にいる。私が母そのものになっている。部屋のドレッサーの鏡に座ってみる。鏡が映し出しているのは、やはり母の顔だった。
じっと見つめる。化粧っ気のないその顔は、どこかやつれていた。
いつも明るい母の、こんなにまじめな顔を見るのは、初めてな気がする。目じりと口元には深い皺。笑い皺。目の下にはクマができている。触れた唇は、少しカサカサしている。
夢じゃなかった。私の体は、母そのものになってしまっていた。
どうしていいかわからず、その場でじっと鏡を見つめていると、背後から声がした。
「おい、どうしたんだよ。ミクなら留学しただろう。早く支度をしてくれ。」
そいうって立ち去る父を呼び止めようとしたが、言葉が出なかった。仕方なくそのまま母のクローゼットから服を取り出し、着替えてキッチンに向かった。
父は着替え終わって、新聞を片手にいつもの席に座っていた。不思議な光景。私は私の席に座ることもなく、そのまま朝食の準備をするなんて。そんなことしたこともなかった。何度か父に話しかけようとしたが、何を話していいか、何から話していいかわからず、やめてしまった。
簡単な朝食を作り、父と二人で食べる。そして思わず父の顔を覗き込む。それに父が気づいた。
「何だよ、今日は朝から何だかおかしいぞ?調子でも悪いのか?」
『ううん。何でもない・・・。』
そう言うとちょっと心配そうな顔をして、今日は付き合いがあるから遅くなる、と言って出かけてしまった。
父が出かけた後、リビングのソファに、腰をかける。深いため息が洩れる。これからどうしよう。漠然と思った。そうだ、アメリカに電話してみよう。そして受話器を手に取る。
何回かのコールの後に、受話器を置いた。もう『私』は学校に出かけたのかもしれない。そもそも『私』はどうなっているんだろう。私が二人いるのだろうか。私は誰?そうしているうちに、強い眠気に誘われ、そのまま横になった。
意識がやんわりと蘇る。外はもう暗くなっている。いけない、どれくらい眠ってしまったんだろう。体が異常に重く、首に手をやると、とても熱い。
玄関先で物音がする。父が帰って来た。ソファに腰をかけている私を見て、父が心配そうな顔をする。
「大丈夫か?だからいつも言っているだろう。あまり無理するな。」
『・・・ううん、何でもない、大丈夫。』
そう言うと父は、ほっとしたような顔をして、着替えるために部屋へと消える。暫くして戻ってくるなり、冷蔵庫からワインを取り出した。
「ちょっと、一杯飲もうか?」
グラスにワインが注がれる。こんなことを父と母はしていたのだろうか。一緒に晩酌をする姿なんて、一度も見たことなかった。
母に優しい言葉をかけている父も、見たことがなかった。どちらかというと、亭主関白だと思っていた。仏頂面で、言葉も少ない父から、日ごろ、読み取れるものは少なかった。私は読み取る必要もなかった。
言葉ないまま、用意されたグラスを見つめる。トクトクトク、と静かな音を立ててワインが注がれる。
ぼそり、と、父が呟いた。
「あいつ、俺から逃げるようにして行ってしまったからな。」
そして小さく笑った。
『え?』と言って顔を上げると、父が悲しそうな顔をして、背中を丸めていた。
「留学には頭ごなしに反対してしまった。でも、本当は、ただ、淋しかっただけなんだ。」
父は、私のことを母だと思って語りかけている。そこに、父の本音が漏れる。
「淋しいというよりは、心配なんだろうな。ただ。何となく、近くにいたものが離れていくというのは、そういう気持ちになるもんだ。」
ハハハッ、と空笑いして、父はワインをグィっと飲み干した。
「お前も本当は俺のことを恨んでいるんだろうな。」
父はちょっと酔っ払っているみたいだった。泣きそうな顔をしながら、笑っていた。
「何も言わなくても解るさ。あの時と、ミクが留学したい、と言ったときが、重なっただろう?」
そう言いながら、二杯目のワインをグラスに注ぐ。
「俺はお前の夢を、断ち切った張本人だからな。お前が後悔していることくらいわかるさ。だけどやっぱり親子だな。ミクはお前の血を引いているんだなぁ。」
何のことだかわからなかった。私がお母さんと同じ?何が?
「今日は疲れたからこのまま寝る。お前も早く寝なさい。」
そう言って父は、二杯目のワインをグイッと飲み干し、キッチンから姿を消した。
私は驚いていた。そして動揺していた。
なんとも言えない気持ちになっていた。父の愛情、そういうものを感じることは、日ごろ難しい。親子だからこそ、わからない。本当は親子だからこそ、解り合わなくてはならないのに。
それと父が母に言っていたこと。夢を断ち切った、という話。私が産まれる前の話のようだ。何のことだろう。母には夢があったんだ。母の夢なんて、考えたこともなかった。
独り残された部屋の静寂を、一本の電話がかき消す。
ピロピロピロ・ピロピロピロ・・・。
ああ、びっくりした、電話か、と、胸の辺りを押さえながら受話器を取る。
「・・・はい。」
暫しの沈黙。
「もしもし?」
『寝てた?』
その声は、紛れもなく"私"の声だった。
「・・・あ。」
『ふふ。ごめんね。驚いたよね。私よ、母さん。』
「どうして・・・。」
『そうよね。私もびっくりしたの。まさかこんなことになるとはね。』
「・・・・・・。」
『ごめんね。本当は心残りだったの。あの日、夢を諦めてしまったこと。でもね、もう大丈夫。ありがとう。』
「・・・え?どういうこと?」
『もう切るわね。おやすみ。もう少しだけお父さんをよろしくね。』
「・・・!お母さん!ちょっと・・・」
私の言葉を待たずに、電話は切れた。
どういうことなのだろう。まさかこんなことになるとは?心残りだった?大丈夫?どういうこと?
軽い眩暈がして、ソファに倒れこんだ。途切れ途切れの意識の中で、思い出す。
小さい頃、母が私に見せた『デッサン』の数々、学校に行っていた時の作品の数々。私と一緒にお絵かきを楽しそうにしている母。
物音に気づいたのか、隣の部屋から顔を覗かせた父が、驚きながら私に駆け寄る。何か言っているが、頭に聞こえてこない。
そうか、そうだったのか。そう思った。そして私は父に告げた。まるで母の代弁をするかのように。
『お父さん、私は後悔なんかしてないから。これでいいから・・・。いつもちゃんと思ってくれてありがとう・・・。』
私の名前、未来。母は私に託したものがあった。それは彼女が迎えるはずの未来。
そして母は叶えられなかった夢を、一瞬だけれど叶えた。思いの強さが、時に奇跡を起こすのだろう。
私は家族の大切さを知った。私は自分ひとりで生きているわけではない。母と父の思いを愛情と共に受け、そして生きている。
想いが時を越える。
その事実が、当たり前のことは、当たり前なのではないと、私に思わせてくれたのだった。





