朝から頭の左側が、なんともいえない鈍痛に包まれている。
朝食を半分ほど食べ終わった後、いやけがさして、そのまま学校へ向かった。
今日はテスト。勿論、勉強なんてしているはずがない。その理由として挙げられるのが、彼の存在だった。
彼は1年生の頃から同じクラスで、サッカー部に所属している。私はマネージャーを務めていて、彼とはそれなりに仲が良い。朝食を半分ほど食べ終わった後、いやけがさして、そのまま学校へ向かった。
今日はテスト。勿論、勉強なんてしているはずがない。その理由として挙げられるのが、彼の存在だった。
最近になって、彼が急にモテはじめた。今年、サッカー部が全国大会に出場して、学校での認知度が上がり、皆が注目するようになったからだ。
彼はサッカーが上手だった。とりわけ足が速い。ドリブルしながらグラウンドを駆け抜ける姿は、他の誰よりも目立ち、とりわけルックスが良いわけでもないのに、とにかく格好良かった。
誰よりもサッカーが好きで、きつい練習にも耐え、そして仲間に優しく、自分に厳しいところが、徐々に評価されてるのだなと思う。
私は彼が人気者になる前から、彼のことが好きだった。
練習が終わった後、1人でコツコツと自主練を行っている姿も、ずっと影から見てきた。マネージャーという立場で彼に接してきたけれど、やはり私が一番、彼の近くにいて、彼を見続けてきたと思う。
最近は、それがはがゆくてしょうがない。
私だってマネージャーじゃなければ、グラウンドの柵の向こうから、友達と一緒に黄色い声援を送ったり、手作りのクッキーやお弁当を作ってきたり、当然のようにしているだろう。ファンとして、そういうことが簡単にできる同級生が、羨ましくてしょうがないのだ。
かと言って、告白する勇気もない。本当は知っているようで、知らないことだってたくさんあるはずだし、もし告白して断られたら、マネージャーだってやっていられなくなる。
悶々とそんなことを考えているからだろうか、テスト中なのにもかかわらず、頭痛がひどくなってきた。割れるように痛い。
とりあえず、解ける範囲だけやって、保健室にいこうかなと、うつむいて考えている時だった。
グラリ、と視界が揺れた。地震のような感覚に似た揺れが、直接頭に響く感じがして、吐き気を覚えた。
次の瞬間、だらり、と目の前の机の上に、白いものが垂れ下がっているのが見えた。そしてそれは、ぷつっ、という音がしそうな歯切れのよい動きをして、机の上に転がった。
静まり返った教室の中での緊張感がそうさせたのか、私の動きはスローモーションになり、こんな現状を把握しているかのように、静かにその転がったものを手に取った。
それは目だった。
理科室の人体モデルの眼球を取り外して見たことがあったが、まさにその感覚と同じだった。違うのは、私が手にしている眼球は、血が通っているかのように、温かいことだけだった。
はっ、と我に返り、テスト中だったことを思い出した。
手のひらの上に乗っている目を、そうっと握って隠し、辺りを静かに見回すと、皆何事もなかったように、テストの答案用紙に目を落としている。
今頃、胸がドキドキしてきた。そして、震える体を落ち着かせながら、見つからないように何気なく左手を開くと、やはりそこには先ほどの目があった。
これは、私の目だろうか。逆の手で、自分の顔の瞳の部分に手を当ててみた。瞑ったまぶたの上からそっと触ってみると、右目には眼球の存在を感じる。左目は、まあるく穴が空いている、空洞の手触りがした。
ワンレングスの髪型は好都合だった。サササッ、と左に掻きあげ、左目を隠して、先生に具合が悪いことを告げた。
頭が痛いのは、いつの間にか治っていた。保健の先生に、具合が悪いので暫く寝かせて欲しいと告げ、足早にベッドの方へと移動し、目隠しのカーテンを引いた。
瞳を握った手が汗ばんでいるのに気づいて、その左目をベッドの上に置き、瞳を閉じて深く安堵の深呼吸をした。
両目、を瞑っていたはずだった、が、私の目の前には座高より低い位置の視界が広がっていた。それはベッドに寝ている状態の視界だった。
おかしいと思い、目を開けると、ベッドに腰を掛けている位置の視界が、目の前に広がっている。
おもむろにベッドの上に置いた左目に視線を移し、もしかして、と思いながら、片目ずつ瞑ってみると、案の定、こういうことだった。
右目が開いている状態だと、右目からの視野が目の前に広がる。右目を閉じると、外れてしまった左目からの視野が目の前に広がるのだ。
外れた左目を手のひらに置き、右目を瞑ってみた。左目を乗せた手を左右上下に動かしてみると、まるでハンディービデオで録画した風景を見ているような状態になった。
状況が状況なだけに、驚きはしたが、何だか心が躍った。
ベッドから立ち上がり、カーテンの隙間から左目をちょこっとだけ覗かせて、右目を閉じてみる。部屋の奥にある机に座っている先生が、携帯をカチャカチャ といじっている。どうやらメールのやりとりをしているようだ。いつもは私たちに、携帯のメールは禁止だなんて言ってるくせに。
ベッドに腰を掛けなおして、左目を見つめる。そうしているうちに私は、とても面白いことを考え付いてしまった。
授業が終わったことを告げるチャイムと同時に、勢い良く保健室のベッドのカーテンを開けてた。
慌てて携帯を隠す先生をよそに、軽く会釈をすると、保健室を後にした。
左目はポケットの中に入れて、小走りに向かったのは、サッカー部の部室だった。
中では部員たちがザワザワと音を立てながら着替えをしている最中だった。見つからないように、部室のプレハブの影に隠れて、皆が出て行くのを待った。
暫くして部室から物音が聞こえなくなったのを確認すると、そうっと部屋に入った。
さっきまで、たくさんの人数の部員たちが、部活の用意をしていた光景が広がっている。開け放たれたままのロッカーや、出しっぱなしのタオルと制服、サッカーボール入れのボールは、半分以上なくなっていた。
やれやれ、と思いながら、一通り片付ける。その最中に我に返って、左目をポケットから取り出した。
そうだった、これこれ。
くるり、と振り向いて、まっすぐロッカーへと歩き出す。鈴木、と書かれたロッカーの前に立ち止まって、キョロキョロと周りを見渡した。そしてロッカーと斜向かいの部室の壁に近づき、椅子を使って位置をあわせながら、柱と柱を支えている桟の上に、左目を置いた。
右目をつぶって確認してみる。
いい具合に鈴木君のロッカーを、左目の視野が捕らえていた。
足早に部室を出ると、体育着に着替えて、グラウンドへ向かった。そこではもう、皆が練習の中盤に差し掛かっていた。まずはベンチにある救急箱から眼帯を取 り出して左目にあて、これでよしと胸を撫で下ろした。後輩のマネージャーに『ごめん』と軽く告げ、そしていつものように放課後を過ごした。
部活が終わって、着替え終わったマネージャー達が「お疲れ様〜」といいながら、次々と部屋を後にする中、ロッカーの中を片付けるふりをしながら、最後まで残っていた。
静かになった部屋のなかで、ドキドキする心臓の音を聞きながら、ひとつ深呼吸を深くして、右目を閉じてみた。
ぶわっ、と視野が一変し、男子部室の光景が目の前に広がった。
皆が話をしながら、練習着から制服へと着替えている。ロッカーの横にある洗面台で頭を洗っているものもいた。
会話が聞こえるわけではないので、いまいち物足りないものがあるが、こんなふうに部室を覗き見するなんて、普通だったらできないことだ。
私は黄色い声援を送っているファンより、鈴木君のことを知ることができるような気がして、とても嬉しかった。
ばさり、と鈴木君が脱ぎ捨てた練習着の下から覗いた肉体は、意外に胸板が厚くて、頼もしかった。目を閉じている自分の頬が赤くなるのがわかった。
最後の一人が部室を後にしたのを確認してから、私は男子部室へと向かった。
もうかなり遅い時間だ。誰かが戻ってくることもないだろう。スペアキーを取り出して、扉を開けると、椅子を使って左目を桟から下ろした。
家に帰り、自分の部屋へ入ると、左目を机の上に置いた。制服を脱いで、部屋着に着替える。今日はいろいろあったな、と思いながら、とんでもないことだと、改めて思いなおした。
昼間は面白い、と思っているばかりだったけれど、この外れた左目は一体、どうなってしまうんだろう。外れたままなのだろうか。それはそれで不具合が生じる。
机に座って左目を見ると、朝よりも少しだけ黄ばんでいるような気がした。例えるなら、朝、新鮮だった野菜が、夕方になってしおれてきてしまっているような状態だった。
左目を見つめながら考えていると、下から母の声が聞こえた。どうやら夕飯の支度ができたらしい。流石に母親は誤魔化せないだろう。
私はおもむろに机の上の左目を、元の場所、顔の左目の部分に入れなおしてみた。
ゴリゴリ、グリグリという、変な感触と共に、暫く動いていた眼球が、突然動きを止めると、テレビのスイッチを入れた時のように、ぱぁっと視野が明るくなった。
そして両目の視野が戻ったのがわかった。眼球は外れる様子もなく、そのまま顔に留まっていた。私は胸を撫で下ろし、ひと安心すると台所へと向かった。
何事もなかったかのように、ダイニングテーブルに座り、テレビを見るふりをしながら、母と顔をあわせないようにしていた。
「あら、あんた、左目、どうしたの?」
「えっ?」
「何か、目の下にすごいクマができてるわよ。それに、左目がすごいくすんだ色してるわ。」
「あー、今日、部活でボールが当たっちゃったからかな?」「あら、あんた、左目、どうしたの?」
「えっ?」
「何か、目の下にすごいクマができてるわよ。それに、左目がすごいくすんだ色してるわ。」
「あら、そうなの?ちょっと病院にでも行って、見てもらいなさいよ。」
「うん、明日ひどかったらそうするよ・・・。ごちそうさま。」
肝が冷えるとはこういうことを言うのだろう。
普通に会話するのが精一杯だった。足早に部屋に戻り、もう一度明るいところで鏡を見ると、確かに母が言ったように、目の下にクマができていて、左目もかなりくすんだ色になっていた。
長い時間、眼球を外していると、やはり栄養が回らないのだろうか。実際、眼球を戻したとき、左目に何かが流れ込むような気がした。とにかく眼球が元に戻 ることを祈った。同時に、眼球が元に戻ってしまったことに対して、少々がっかりもした。これでもう、あのスリルを味わえないのか、と思うと、何だか惜しい 気がした。
つづく




