母が他界した。
それは、あっという間の出来事で、毎日の生活の中にいやおうなく喰い込んできた。
生きている、ということと、死んでしまった、ということの現実を突きつけられた。
死んでしまったものの時は止まり、それでも、残った生きているものは生きていく。
その矛盾と習慣に戸惑い、そうしているうちに49日を迎えた。
朝、不思議な夢から目覚めた。
ただ、ただ、真っ白な白の中に、母が立っていた。
そして、こう言う。
『真ちゃん。閉まってあるからね。もう大丈夫よ。』
何のことだかわからず、僕は母に問い掛ける。
何を言っても、夢の中の母は、ちょっと寂しそうな、悲しそうな顔をして、同じことを繰り返す。
何のことだろう、見当がつかない。考えてはみたけれど、一向に思い当たるふしがない。
それを境に、母は毎日のように僕の夢に出てきては、同じ事を繰り返すようになった。
問い掛けても、答えはない。
夢を見始めてから、初めての日曜日を迎え、父と朝食を済ませたあと、縁側に座って話をしていた。
「お前は、母さんにかわいがられていたからなぁ。」
そう言って、目を細める父に、ふと、夢のことを聞いてみた。
父はびっくりしたような顔をし、それからしばらく沈黙が続いたあと、こう言った。
「・・・そうか。母さんの部屋に行ってみるといい。」
そう父に告げられ、僕はそのまま母の部屋に向かった。
母の部屋は、1階の奥の南側に面した所にあった。
小さな6畳の部屋の扉を開けると、レースのカーテンからこぼれた日差しが眩しく、目が慣れるまでその場に立って瞳を閉じていた。
瞳の奥に記憶が蘇る。そう言えば、学校から帰ってこの扉を開けると、逆光にオブジェのように浮かび上がる母が、いつも「お帰り。」と言ってくれて、その、かすかに微笑んでいる口元が印象的だった。
今にも背後から母が現れそうな、そんな状態で部屋の中は時間が止まっていた。ゆっくりと窓辺に近づくと、ここから門がよく見えた。僕が扉を開けるとき、いつも母が振り向いている理由がわかった。
くるり、と、振り向いて部屋を見渡した。
大きな箪笥。
小さなドレッサーには化粧瓶が並んでいる。
その隣に、古いミシンが置いてある。裁縫が好きだった母は、いつもこのミシンの前に座っていた。
ミシンに近づき、椅子を引き出して座ってみる。正面に向かうと、小さな引出しがついているのを見つけた。そっとあけてみると、糸やら、ハサミ、メジャーなどがひしめき合っている。
閉めようとしたとき、引出しの置くに光るものを見つけた。小さな鍵だった。
どうやら、どこかの鍵らしい。部屋を見渡すと、鍵がついている引出しや、物入れなどはなかった。
母の部屋を出て、家中の物入れの鍵穴に鍵を入れてみたが、どれも当てはまらない。
暫く途方に暮れていたが、ふと、屋根裏部屋の存在を思い出した。
普段は滅多に下ろすことのない、屋根裏部屋へ続く階段を下ろすレバーを引き、一段ずつ上がっていった。
埃と黴の匂いが、鼻にツンときた。
そこはただの物置になっており、学習机や衣装ケースやダンボールなどが、ここ狭しとひしめき合っていた。
一通り見回し、懐かしんでいると、部屋の片隅に、小学校まで使っていた机を見つけた。
うっすらと埃をかぶってはいたものの、懐かしさに引き出しを開けて みる。
一番上の幅が広い引出しには、小学校の時に、図工の時間で書いた絵や、国語の時間に書いた作文などが、丁寧にとってあった。
2つ目の引き出しには、小学校の時に使っていた教科書が入っていた。
三つ目の、深さがある引出しを開けようとすると、『ガチリ』といって、鍵がかかっていた。
おもむろに先ほどの鍵を取り出して、鍵穴に入れてみると、ぴったり合った。
引き出しを開けると、綺麗に折りたたんである布が見えた。
取り出して広げてみると、ベッドカバーだった。
裁縫が得意な母が作ったパッチワークのベッドカバー。
今見るとかなり手の込んだ柄で、一針一針、手縫いなのには驚いた。
そうだった。
このベッドカバーの柄が恐くて、夜中に起きた時、よく泣いたんだった。
沢山の四角の中のカントリー調の模様に、働く人間の姿を刺繍しているものがいくつかあって、それがやけに恐かった。
そう思いながら、引き出しの底に目をやると、小さな箱を見つけた。
箱を開けてみて、更に驚いた。大小からなる、針の数々。マチ針、ミシン針、縫い針など、数十本の針が入っていた。
そうだった。
母が裁縫をしている隣で、危ないから触ってはいけない、と言われているのに、触ってしまい、マチ針を指に刺してしまったことが何度もあった。
勢い余って思いのほか深く刺してしまい、指の端で、針が貫通してしまったこともあった。
今思うと、どちらもよく泣いた。何度も泣いた。
その度、母が悲しそうな顔をしていた。
母がどうして急に、あんなに大好きな裁縫を止めてしまったのか、気にしたことがなかった。
引き出しを閉めたときに、ふと、気がついた。
何度も、何度も開けたのだろう。鍵穴の横には、無数の傷が付いていた。
すぐさまベッドカバーと針の箱を持って、母の墓に向かった。
静かな墓地に春の日差しが落ちていた。
母が入っている墓石の前でしばし立ち止まり、思った。
彼女の優しさは、計り知れないほど、深いものだった。
それは、愛情ではなく、愛、そのものだったのかもしれない。
箱を静かに足元に置いた。そして、ふわり、と、ベッドカバーを墓石の上に掛けた。
暖かい風が、足元から吹き上がった。
はためいたベッドカバーの裾のその向こうに、雲ひとつない青空が見えた。
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